地域情報
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ドウギの木は子ども達の遊び場 |
土地の人は、大けやきをドウギの木と呼んでおります。 大きな洞があるから洞木の木と呼んだのでしょうか。洞があり、瘤(こぶ)のような出っ張りがあるけやきは、昔、こども達の絶好の遊び場でした。昭和の初め頃のお話を先輩の方々に聞いてみましたところ、当時の様子をいろいろと知ることができました。 大けやきの西側の上の所に、大きな穴があり、ここが洞の入り口で、出口は、南側の一寸下にあったのですが、この穴は今は塞(ふさ)がってしまいました。こども達は、ここを出たり入ったりして遊んでいたそうです。昭和の初めから約六十年、小学生が出入りできた程の大きさの片方の穴が塞がってしまいました。ぐんぐんこの木は育っているんですね。 |
大けやきと梟(ふくろう)の巣 |
東側の出っ張った所の上の方にも、大きな穴があったそうです。その上には、毎年のように梟(ふくろう)が巣を作りました。今、この北側には、桜の木を植えてありますが、以前は大きな杉の木がたくさんある森でした。神社の後ろにも大きなけやきがあり、東側も西側も広々とした畑でした。南には田園地帯が広がり―こういう環境でしたから、梟が住みついたのかもしれません。梟はチャボよりちょっと大きい位で、笊(ざる)を被って中を覗(のぞ)いたら、子どもは白い色をしていたそうです。けやきの東側は桑畑で、蚕(かいこ)のために桑を切った後は、広々とした畑になりました。そこへ子ども達は、枝を伝わって飛び降りっこをして遊んだそうです。夏休みには、この木陰が林間学校となり、みんなで集まって勉強しました。 |
大けやきの伝説 |
このけやきの木は、八百比丘尼(やおびくに)が植えたという伝説があります。若狭の国、松原の生まれで小さい時に父親が、竜宮から貰(もら)ってきた人魚の肉を食べたということで、八百年も生きながらえたと言われています。いつになっても年をとらないものだから、恥ずかしくて世の中に出られなくなり、洞窟の中にずっといたため、色が白くて白比丘と言ったそうです。その後、洞窟を出られて、あちこちの慈善事業に力を貸したと言われております。 |
大久保地区を南北に貫流する鴨川(かもがわ)を紹介します。 |
藤橋の伝説 |
大久保の最北端白鍬と大宮植田谷の境に、藤橋という橋があります。昔、この付近には鴨川に架かる橋がなく、土地の人々はわずかに藤蔓を編んで板を並べた程度の橋を伝って行き来していましたが、大変不便で時には落ちておぼれる者さえあったといいます。 寛政五年ごろ、小平次という丹後の国、宮津生まれの廻国行者がこの地に現われ、この実情を知って、人々の苦難を救うために辛苦の末、立派な石の橋を架けたといわれます。 |
昔の川遊び |
農業が盛んな頃、農家の人々の大きな仕事の一つに、かんがい用水源を作る作業がありました。初夏を迎えた頃、農家の人々が作った土俵が川底に沈められ、川水をせき止めるのです。せき止められた水は日一日とその量を増し、あふれた水は土俵の上を越えて流れ落ち、その落口は格好の魚取り場となります。 鴨川ではオッカブセという当時の子供のそぼくな漁法がはやりました。底の抜けたバケツやザルを使い、澄んだ水底にひそむフナを見つけると、ぬき足さし足で近づきすばやくバケツをかぶせるのです。それはまたフナと子供のびんしょうさを競うゲームでもありました。あふれる水はプールなどなかった往時の子供たちの遊泳場となり、夏の天国だったのです。 しかし当時といえども川泳ぎは危険防止の意味で禁止されていました。夕暮れ家路を急ぐ先生が来ると、子供たちは一斉に水中にもぐるのです。それを知って先生が自転車のベルをけたたましく鳴らして通り過ぎると、悪童どもが水面に顔を出し口をとがらせて大きな呼吸をするユーモラスな光景もしばしばだったそうです。 |
鴨川の渡し舟 |
昔はこの鴨川の流れこそ、見渡す限りの大久保の耕地に息吹きを吹き込んだ大動脈的な存在でした。ただし、この川によって恩恵を受けた人々は、川の氾濫のためしばしば大きな被害も受けたのでした。しかしその洪水も子供たちには嬉しいものでした。青年団の人たちが舟で学校への送り迎えの奉仕をしてくれたのです。渡し舟が出ると学校を休む者が一人もいなかったといいます。とうとうと流れる水は怖いのですが、舟に乗ってみたいという冒険心がそうさせたのかもしれません。 |
東小の学区地域の地名の由来を紹介します。 |
大久保(おおくぼ) |
大久保は、古くは大窪と書きました。窪とは、丘陵地と丘陵地との間の低地、湿地をさします。この窪地は、天然の用水が得られるので、水田耕作上から注目されました。この大久保も、大宮台地と武蔵野台地との間、旧入間川沿岸の窪地にあるので、この名がついたと言わていますが、他にも諸説があり断定できる資料がありません。 |
領家(りょうけ) |
荘園領主を表わす領家に由来すると思われます。明治十二年~末年、同郡内に、同じ地名があったため、植田谷領領家と称し、のち再び領家となり、昭和三十年からは大久保領家と称しました。 角川日本地名大辞典「埼玉県」より |